Are you a short-sleeper?

ショートスリーパーと自称する人がいる。

 いくつかの海外公的機関のレポートと新聞記事などのジャーナルを見て、そういう人がどのくらいいるのか調べてみた。会議中にあくびが出る、運転中に眠気を感じるなどの睡眠障害を起こさない条件で、一日当たりの睡眠時間が6.5時間以下で大丈夫な人は5%、6時間以下の人が3%、4時間以下の人は1%前後とするものがそれらの平均的な睡眠時間だろう。

 逆にロングスリーパーと言われる人々もいる。先天的に長時間の睡眠を必要として12時間以上の場合は長眠症などと呼ぶ障害だという。先天的であるかどうかは別にして、ミハエル・シューマッハは12時間、白鳳関は夜に10時間と昼に数時間、アインシュタインは10時間が通常だと言う。

 短眠症、つまり長く寝なくても大丈夫と言う人の例では、ベンジャミン・フランクリンが6時間、ナポレオンが3~4時間、マーガレット・サッチャーが夜は4時間、チャーチルが4時間などと言われるが、周知のとおり、ナポレオンやチャーチルエジソンは転寝をすることでも有名で、彼らの主張する夜に何時間という時間では睡眠不足だったことは確か。エジソンは、魚は泳ぎっぱなしだし馬は物音がするといつでも走り出せる。人間だって寝る必要はないんだ、と主張していたから、無論、睡眠時間のデータはない。

 

寝だめは無理

 私なんかは、眠いと思ったら横になれる所を探してしまう人間だから、夜に6時間、その他で3時間が通常。徹夜した翌日なんか20時間ほど寝てしまう。睡眠不足を補うリカバリー・スリープは寝だめとは違うが適宜取る必要がある。明日の為に睡眠時間を貯めておこうという、プレ・スリープは不可能だと言われるが全く不可能だと思う。それまでの寝不足を解消して勝負に向かうのは正しいけど、それはプレスリープではない。

 

ショート・スリープは自慢?

そして興味深いのは、二つの新聞社のジャーナルにあったのだが、ショート・スリーパーと自称する人は、仕事が忙しい事や人気者で眠る暇がないと自慢するためにそう言っていると分析していることだ。

多分そうだろうなと私は思う。眠いと言って昼休みに寝ている人がいるもの。私は将棋を指したり卓球をしたりで昼休みにリフレッシュする。しっかり寝てから出て来いと言いたいが、言わないでいる。忙しいのだろう。何でそうなのかも聞けないからね。

 

日本人の7割が睡眠不足だという。

子供と年寄を除いたらほとんど全部がじゃないか。昼休みに卓球!と言える若者を見たいものだ。コミュニケーションもないし、つまらん、いや、残念ですよ。

私たち人間の体の構造やホルモン分泌が環境に適応して行くには、7世代がその環境の中にいる必要があると聞いたことがある。睡眠不足に適応して行くにはあと100年は必要だ。少なくとも我々の21世紀世代では無理だ。それまでは無茶をしないようにしてほしい。

ディスプレイに時間を引きちぎられている人々にお悔やみを申し上げる。

寝ている時間が無駄だから起きてるというが、寝不足で時間効率が下がることと比べて、決して無駄が少ないわけではない。

リカバリー・スリープをさっさと取って効率よく仕事してさっさとアフターファイブに勤しもうではないか。

 

All Hallow's Day

世界史を紐解くことになってしまう。

紀元前から中央ヨーロッパに住んでいたケルトの人々は紀元前1世紀ころからゲルマン人に、4世紀に帝政ローマの侵略を受けて西の周辺へ逃げて行った。ケルトの人々はその昔からの習慣の一部を行き先でも続ける。話題のハロウィンだが、ケルトの人々と言えばアイルランドスコットランド、フランス、ガリシア、それらの港から海を渡って北米、中南米に広がる。

キリスト教に変わる前は多神教で、収穫が終わる11月1日に収穫を感謝し祖先の霊を慰め、悪霊や怪物の退散を祈った。それが万聖節と言われる。ドルイドがかがり火、作物などを燃やして火を各家庭に渡した。火を保護するためにルタバガやカボチャ、リンゴなどがくり抜かれて使われた。ケルトの一日は日没から始まるので、10月31日の日没後は11月1日。

 

今、いろいろな国でall saint's day, Allhelgonadagen, Allerheiligen, all Hallow day などと言われる祭りはキリスト教的には異教徒がいくつもの神を畏れることなので本来の祭ではありえない。土地の人々の懐柔策で生き残らせた行事だ。

だからアイルランドの人々がブリテンの重税に苦しんで北米へ移民として入ったことでアメリカの風習となり楽しい仮装行事に変わった。ハロウィンはそれが広まった。

 

万聖節を祝う例を挙げると、北欧では墓場を訪れ、親族の墓に花やリースを捧げ、ロウソクに火を灯す。カタルニアでは広場で屋台が並び、大きな墓地周辺ではコンサートや23人の魔女の演劇が毎年演じられる。ガルシアでは魔女がLa Queimadaという儀式を行い悪霊を追い、家庭ごとに死者を饗宴すると死者は生きている人の中を歩くことができると信じられている。霊の安寧を祈り、悪霊から守るために、人々は外に御馳走を残す。ローマ時代には、ローマの収穫の女神、ポモナに敬意を表す祭が加わった。ポルトガルではこの数年で、子供たちがテレビを見てお菓子を集めて回る姿が時々出てきたと言う。大人はほぼ無関心と明言している。 ドイツは5州で聖休日でカトリック地域のバイエルン市では静かな聖なる日(休日)に指定される。ダンスは午前0~2時は禁止、全ての商店は休業しなくてはならない。ともかく家で静かに過ごす日と法律で指定されている。

 

一方でキリスト教の行事ではないので、特にカトリック正教会ではこの風習がない。エリトリアの米国大使館では市民との交流行事として、アメリカのハロウィンの起源と宗教的な意味合い、そして現代の楽しみ方を講習している。基本は子供の遊びとしてだが。日本の米軍キャンプでも同様のことをしているから、昔の宣教師のような思いなのかもしれない。宣教師には軍がついて回り、商人が追いかけるのが常だが。

エチオピアエリトリアと同様に古いキリスト教の国だが、十字架を抱えて練り歩き、若者が棒を地面に叩きつける行事を行うそうだ。復活祭のつもりかな?

ギリシアでは街中をトリック・オア・トリートと騒ぐ子供は見られないが、観光客や大人向けにバーやホールで仮装パーティーが行われているとのこと。ただし、同様の意義で行われる祭りは二月のアポクリエスで、3週間にわたり仮装して誰かれなく家のドアを叩き、家主は酒か菓子を振舞うのだそうだ。

イスラム教の国でも世俗主義のトルコでもギリシアと同様で、数百の場所をリストにして、その店やホールで仮装パーティーをやっても構わないとのこと。外では大っぴらにはやらないようだ。

こうして見てくると、アメリカの風習を広めている米国人は米軍と外交官、英語教師などらしい。友好政策の一環なのだろう。それを異教徒の行事とするキリスト教国やイスラム教国でもこの十年くらいが流行の兆しが出てきている。日本のような無宗教に近い国では気軽に流行る。宗教的な意義はすっかり抜け落ちて。

 

おまけ

ある放送局でハロイーン、ハロウィン、ハローウィーンなど、いろいろと読み分けて、どれが正しいかなどと話題にしたがっていた。これは何でもいいのだと思う。渋谷仮装大会の日とか、お化け大会の日とかでも全く問題ない。その行事には意味はないのだから。

日本へ来た外国人が新幹線に乗って「シンカーセーン」とか言ってたら「シンカンセン」と直したくなろうが、そっくりの高速鉄道がサウジにできたからと言って、それを新幹線とは呼ばない。ジーメンスのスペイン工場で出来た車両だし、日本のそっくり車両より速いし。

日本へ伝えるときにHalloweenなどと教えず仮装大会の日と米軍が教えてくれてたらこういう下らない議論で電波を使うことも無かったろうに。

一部の人が暴徒化してしまったと嘆くなかれ。意味を学んでも宗教心がないのだから何の効果もない。それが無宗教の弱さ。

J.J.ルソーは、神は存在するかと議論するよりも、信じる人のほうが信じない人よりも幸福だと言う人となる確率が高かった、と統計結果を示した。

 

我が国も宗教を軽んじる癖は止めるべきだと思う。

特にハロウィンの暴走を見ると、そう思わざるを得ない。

サウジ・アラビアで雹が1mも積もった

Taifの一部では1mの降雪、いや降雹があった。雷雨の注意報が出ていたが、昨日降り出した雹は1~2センチのものを含んで降り続き、道路を完全に封鎖してしまった。

 

今年2月には直径数センチの雹がサウジのMadinahで一面に降り一帯を白くしたと報道されたが、今回はそれどころではない、道路工事の車両が日本の除雪作業を再現するような、除雹作業をしていた。

https://www.khaleejtimes.com/region/saudi-arabia/video-massive-thunderstorm-blankets-saudi-with-hail-1-metre-deep

 

現地の人はきっと、何かの前兆とか考えてしまう、それくらい大量の降雪。このビデオ報道を見て思ったのだが、誰も長靴を持っていないと思われる。ゴム長もなく、大抵の人が冷たい雹の積もった道路で、サンダル履きで雹に埋まった車を助け出そうとしていた。当たり前?

 

 

催しましたよ秋祭り

「昔は遅くまで踊りが境内を埋めたもんだけどねえ」

近くの秋祭りが昼から山車をながし警察が先導するなどして賑やかだった。しかし夕方には静かになって屋台も人待ち顔だった。けっこう人口のある町だと思うけど、境内がだいぶ狭くなって踊り手も集まらないのだそうだ。

 

夏祭りは盆踊りが定番だけれど、秋祭りは地味な踊りが多いのかな、とネットで調べてみると、何が不満かと言えば、近所の人々が眺めているだけの練り歩く踊りや面白い恰好をした踊り手が演じて見せるものがほとんどだということ。

東京でも東北でも阿波踊りやらよさこい、ソーラン節などを見せておしまい。町の老若男女は眺めているだけ。楽と言えば楽なのだが。一部の踊り上手だけが路上を練り歩いたり広場のステージを占領する。予算が取れる町が企画を立てて街の人の慰みにする、それで良いのか?

 

カタルーニャのサルダーナという踊りは、カタルーニャ州アイデンティティだと市民が胸を張る。年がら年中、日曜のミサの後、結婚式の終わり、イベントの中などで老若男女誰でも参加して単純なステップで踊り続ける。

観光地の駅前や教会の広場で音楽をかけて一人が躍り出すと、近くの店や通りがかりの人などが参加して、一時間ほどで二~三百人が輪を作っていたりする。通りがかりの人は荷物を踊りの輪の中心に置いて輪の中に割り込んでゆく。二百人ほどになると荷物が山のようになって何重も輪ができる。

一つだけルールがあって、男女が手を繋いでいて男が右にいる時にそこに割り込むと怒られる。カップルだからだ。

 

ギリシアイカリオティコスはイカリア島の民族舞踊でずいぶん昔から皆で踊っているそうだ。これも誰でも飛び入りが可能で、観光地の広場はもちろん、日曜の協会の広場、結婚式の最中にほとんどの人が行列を作って料理を食べている人が数人しかいない状態になる。

こちらは周辺の島々もよく似た踊りがあって、手をつなぎ合ったり、肩を組み合ったり、腕を交叉させたりのバリエーションはあるが、基本は輪を作って簡単なステップでメンバーが入れ代わり立ち代わりして、ずっと踊っていることだ。

 

ついでだから北欧も引き合いに出すと、ロングダンス(現地の文字が打てないので英訳で失礼)と呼ばれる踊りが昔からある。東はフィンランドからスウェーデンデンマークの一部に広がる。先頭の人が手を取って人々の中を踊り歩いて行く内に次々と人がつながって行くという物。

結婚式の間の例を見ると、会場の広い所も狭い所もくまなく進んで行く。途中で引き返したり何かの下をくぐったりして進むが、ともかく手を離してはいけないというルール。三拍子で軽快にとんでもない所も進んで行くので笑いが絶えない。

これも国民的な踊りで誘われて連なるのを断る理由が思い浮かばない。ただつながるだけだが、面白いから続くのだろう。

 

民族的なダンスとなるにはそれだけの要素がある。人に見せる為ではなくみんなで踊るための要素は、第一に難しくない、第二に参加も退場も自由、第三に服装も自由、ただし(第四に)小さなルールがある。もちろん楽しい音楽がついている。

これがグループダンスとなる民族舞踊の条件だろう。

 

一方で、昔から伝わる演じられる民族舞踊という物もある。

日本の例では、宮廷や神社の舞楽などの奉納舞、能や芸者踊りなどの日本舞踊、現代で言えばよさこい阿波踊りなどの専門的集団の踊りだ。

これは、例えば王宮で踊られたワルツ、ジプシーが作ったフラメンコ、難しいステップで専門家集団が躍るリバーダンス、演劇から生まれたサルスエラなどがある。

その演じられる場所がどこであれ、通りがかりの誰でもが参加できるものではない見世物としての踊りは詰まらなくなる。能や狂言浄瑠璃が一時期は流行っても消えて行くように、見る者は見るだけだから、参加者とはなれない。それは演者と観衆との乖離を生じさせる。

 

温泉へ行ってひょっとこの踊りを見せてもらって、どれだけ面白くても、自分がそこの一員となる意識は生まれない。

東京の祭りにサンバを見せられても阿波踊りを見せられても、自分とは関係ない世界のこと。

 

秋祭りで東京音頭をやれば良いのに。などと言っているのではない。

知らない人がどんどんその輪に入れる踊りをやる!という意識がないのが嫌なのだ。街中が輪になってほしい。その為に踊りを踊る、祭りを開催する。 それならば見世物では変なのだ。

町の人だけで踊る、役所の人が集めた人だけが踊る、お役人が踊れというから踊る、お金をもらえるから踊る、それで町の団結ができる訳はない。

踊り、祭り、出店、その目的が見えずに開催しているとしたら予算と時間と努力の無駄になる。

 

You're Nothin' Without Me

お前は俺なしじゃ、ただの役立たず、とでも訳すのだろうか。そんな歌がある。

最後は、俺はお前がいなけりゃただの穀潰し、などと歌って終わる曲だ。

今日は何の根拠もない独り言。

 

一人の人にとって、もう一人を見較べて、自分より信頼できるし前向きな人だと感じるときと、いい加減な奴で頼りにしてはいけないと思うときがある。きっと、良い奴とは前者で、後者はダメな奴になる。そう考えて付き合いを見直すこともあろう。

 

私の知り合いの女性が、旦那さんの子を身籠って、つわりで苦しかった時や、乳児を育てることに振り回された時期に、旦那さんが風俗に通って性病にかかったり理由もなく外泊することがあったとこぼした。

実は、それを問い詰めたところ旦那さんが家に帰らなくなったらしく、別の女性が言うには旦那は離婚を考えているが奥さんは悩んでいるらしい。

 

それで、その別の女性に確認すると、結婚する前からチャラ男だったけど、奥さんがそれを直してゆく決意で結婚したとのこと。

 

無理な決意をしたものだと、私たちは笑ったが、チャラ男は死ぬまでチャラ男な生き物だと。変えようとするのは無駄、不毛な努力で、死ぬまでほとんど変えられずに終わるのは明らか。

相手を変えるのは無理で、自分が変わるしかない。

 

チヤホヤされて可愛がられて生き続けたい人と、信頼されて前進して人生を構築して行きたい人とは育てられ方から違う。自己形成の全ての時期をチャラ男で過ごしたら死ぬまでそのままだ。落語の芝浜なんて話だけの世界と考えて良い。

売れっ子アイドルも生半可ではない自己変革を積み重ねて一流になれる。自立しない人が生きるには、自律している人に頼るしかない。そういう人は信頼できる人、どんと来い、一人や二人なら任せろと言える人を伴侶として選ぶべきだ。

チャラ男とチャラ娘では苦しい将来が最初に透けて見える。上記の二人だ。

 

一方で、少子化が明らかになり、介護放棄と共に子育て放棄がメディアに増えてきた。将来は産みっぱなし、あとは知らないという態勢が用意されないと、親は孤独死、子は放置死がメディアを騒がす時代が来るかの様相だ。

つまりは、生きるコストがかかりすぎる時代になって来るということ。胴上げから肩車になるのは介護状況を示す。しかし、子供を育てるにも、一人親が増えたりきちんと自立した子に育てる暇がなかったり、教育費が馬鹿高くなって稼ぎ出すまでが長くなり過ぎたりして、最初に放棄したり、教育を放棄したり、指導も放棄するしかない、切羽詰まった生き苦しい時代になっているのではないか。

育てた子が家を出て帰って来ないのは何も特殊な事でもない。むしろ、それが普通となっている。

 

この状況を嘆くのは自由だが、家に縛られない生活、人生が普通になると同時に、墓も要らない、家も要らない、伴侶も要らない。求めても得られない時代がやって来ている。

嘆くのではなく準備すべき時期なのだろう。

一人の人が家を離れて自由恋愛で伴侶を見つけ、責任を持てない組み合わせの場合はすぐに離婚する。子供ができたら悲劇だ。しかし勇気を出して育て始めたら、時間とコストと生活が束縛され削られて、やむなく逃げ出す。そのような社会はスラム化してしまう。

 

昔の家を中心とした家族形態に戻れと言っても無理なのだ。一人ひとりが自律すると言いつつ、人間関係が保てない社会で孤立して行くことを前提とした態勢。それに対しており一人が責任を持つ社会の在り方は、多分、高負担・高福祉の社会しかないだろう。

産みっぱなしの子でもきちんと育ち、子が海外へ行ってしまってもきちんと介護される、気楽なようで孤独な時代。

人間が機能を発揮するだけの社会とはそういうモノだ。

人間が人間らしくいきるとは、その機能だけが評価されるのではなく、家族とかコミュニティとか、友人の中で、社会の一員として参加し分け合う事であり、機能を用いられるだけでは奴隷的生活に変わりない。

国民というか、市民というか、その存在意義が経済的機能などに重きを偏らせすぎると、人間としての側面が抜け落ちてくる。

介護放棄とか育児放棄とか、虐待はその現象の先駆けなのではないか。

 

You're my everything. とは言わないが、You're something for us.と、経済的な意味ではなくて誰でもが言える時代が来ないかな。

 

廃棄物の撤去費用は誰が負担?

海に流れ込んだ廃棄物。その量は膨大だ。

それを分解処理する微生物の力は偉大だが、分解不能な物や微生物や海生生物を殺すものも多い。プラスティックごみ、セラミックやナノサイズの微粒子、分解しない薬品類等々。

トランプ大統領は米国海岸に漂着する物の投棄者に責任があると話している。

 

空に拡散する廃棄物も大量にある。

二酸化炭素などの温暖化ガスがその代表だろう。地球への紫外線を素通りさせるフロンガスなどもある。エネルギー消費による熱エネルギーの放出も大きい。

これらの排出者にも責任がある。まずアメリカがその第一の責任者だろう。

 

20世紀の末に、21世紀はゴミとエネルギーと食糧が人類の課題であり、大きなビジネスとなると言われた。

確かに、廃棄物、排出物という意味でのごみは、これまでは気にならなかったが、1900年に17億人だった人類は75億人に増え、一人当たりの排出量も3倍になった結果、地球上に撒き散らされるごみは分解能力を越えたと言える。

 

そういう意味で、トランプ大統領が、漂着するゴミに違和感を覚えて責任を訴えるのは必然だった。

排出ゴミに歯止めをかけようと提案し始めたのは20世紀の末。アメリカは温暖化ガス規制にそっぽを向いていた。

 

これから先、貿易戦争と同じように、ゴミ戦争が始まるかもしれない。

トランプ大統領は、ようやく廃棄物が過大になったことに気づき、何らかの戦略を打ち出すべきだと、うっすらとながら対応の必要性を感じ始めたのだろう。

 

ごみ戦争はごみビジネスの戦場でもある。温暖化がビジネスチャンスになっているように。アメリカはそこへ踏み出すのだろうか。(日本はアメリカが踏み出さない限りは動かないだろう) 欧州には手を挙げる企業が出てきた。

さて、地球の未来は明るいのか。それとも責任のなすりつけ合いに終わるのだろうか。

 

守護聖人

BBCのサイトを読んでいたら、「彼は私の守護天使だと信じる」という人がいた。

 

先日のインドネシアの大地震で、旅客機のパイロットが航空管制官に感謝の意を込めてツイッターなどで語っているとのこと。

地震でほとんどの人が逃げた中、その管制官は着陸しようとする航空機に対して、地震状況を伝えるなどで最後まで交信し続けた。結果、航空機は危機を回避し、逃げ遅れた管制官は・・・死んだ。

 

東日本大震災でも、最後まで避難を呼びかけて、命を失った市役所の広報担当者がいた。

 

実は、久しぶりに昔のゲーム機を遊んでいたのだが、DQ9:星の護り人 のことを思い出してしまった。

 

単純に、guardian-angel という言葉が過去の連想を呼び起こしたという話なのだが、守護天使、あるいは守護聖人が実在するとしたら、彼らのような人を言い、うがった見方をすれば、誰でも、そのような状況下において、自分の責務を果たして他人を助ける結果を現実化することができるという事でもある。

 

有名な哲学者が、あなたのその手は溺れようとする人を助けることも出来るが、罪のない人を殺すことも出来る、などと言っていたが、いつかは誰かを助ける人間を演じたいと願うのが人間。しかし、いつか誰かを殺す役を演じたいと願う人は稀で、条件によっては自動的にやってしまう行動なのかもしれない。

 

サターンは堕天使とも訳されるが、元は同じように羽根を背中に持つ天使だった。

参照:

www.bbc.com