参加を誘うフォークダンスが日本を変える?

だいぶ前になるが、祭り、舞踊の起源を考えてみたことがあった。

「おどり」には舞と踊があって、前者は飛び跳ねない比較的ゆっくりとしたもので、後者はジャンプが多いものと思って良い。仮面の歴史と同様に踊りの歴史はほぼ社会の成立に等しい歴史があると言える。

 遊戯の「はないちもんめ」(以下、花一匁)に興味を持って、人と人のつながりを前提とした単純なダンスを伴う遊びの歴史が上記の仮面や踊りとつながりを持つ点に気付き、それらとの違いを考えてみた。

 

 仮面や踊りは人間の本能に直接的に起源するものだが、花一匁は社会的な起源要素がある。現代の花一匁は二つに分かれた数名の仲間が歌を歌い、踊って仲間の取り合いをする子供の遊戯だが、日本各地でそれぞれに古い伝統があるようだ。しかし、中央の主導する教育の一環として用いられた時間が長くて、遊び方が統合されてしまい、元の姿が分からなくなっている。

 そこでお手軽にネットでよく似たダンスや遊びが外国には無いのか調べてみた。すると、カシミールフォークダンス、ネパールの祭りの踊りが似ているものと思えた。いかにもいい加減な調べ方だと思うが、起源を探るといういつもの考察は捨てて、それらを見ていたら、やはり踊りにはストレスの開放効果があるとの(以前からの)確信を深めることにはなった。お肌に良い効果?

 

フォークダンス

 遊戯的な要素が強い花一匁もフォークダンスの一種であるとすれば、あのように手をつなぎ合い、歌を歌い発声しつつ、リズムに合わせて共同して動き回る時間を共有するのは、仲間意識を高め、共同生活の基本をレベルアップして行く効果があるに違いない。ふ・ふ・ふ。

 

 世界中のフォークダンスも数日をかけて検索してみたが、たいていのものは老若男女を問わずに参加できて、難しいステップがない。ただし、宗教的制約があるのだろうか、日本のフォークダンスである盆踊りや、きびしいムスリム戒律を求める国には男女が手を繋いだり抱きあったりすることがない。宗教起源にはおかしなルールがある。

 パレスチナのガザでは、男女が一緒に混じりあう場面は見つけられなかったが、男だけの踊りと女だけの踊りが、なんと同じステップとリズムで別の会場で同じ日に繰り広げられていた。こりゃあ、共に練習し合ってプライベートな会場ではいつでも一緒に踊れるのだから、それは確実に出逢いが生じているはずだ。

 すべての器官はその存在を主張するとは著名な哲学者の言葉だが、人の能力も身に付いたものは発揮できるチャンスがあるとムズムズとして発揮してしまうものなのだ。伝統的風習とはそういうモノなのだ。組織論、能力論だけではない。

 要するに、男女間や年代間、あるいは複数のコミュニティ間の壁を取り除く、社会融合的な効果がある。

 

 エストニアの第8回歌と踊りの祭典では、世界中のフォークダンスが公開されていた。ほとんどが男女老若の壁がなく、飛び入りでも踊りに参加できる。簡単なステップと踊りやすいリズムがずっと続くものだから、誰でも参加できる。祭典の最中には人種も年齢も関係なく参加し合っていた。

 

 また、観光地に多いと思われるが、その『誰でも参加できる』特性を活かした、不特定な参加を待つフォークダンスがほぼ常時展開されている例もあった。

 それは、プロかボランティアかは分からないが、フォークダンスのチームがあるという事実だ。

 彼らの目的は、もちろん、上記の参加者を集めることにある。しかし、参加した者は楽しくて、仲間感が味わえて、気持ちが高揚する。これがリピート率を上げない訳がない。

 

見せる踊り

 日本でも盆踊りが進化したイベントが繰り広げられるが、残念ながら誰でも参加できて手をつなぎ、一人ひとりがいろんな人と交流できるものは少ないとしか言えない。一部の人の踊りを眺める形が多くメディア化されている。綺麗か、派手かで価値が決まると、小さな子供や外部からの訪問者は参加できずに眺めることになってしまう。

 つまり、盆踊りのような、特定の期間に限った往来者を集めることはできる。まるでテレビを見るかのようにその現場に足を向けるだけなのだ。一緒に手を繋いで踊り、抱きあったりしてステップを踏むことはない。

 たとえば徳島へ行くと阿波踊り、丹後へ行くとドジョウ掬い、郡上八幡へ行くと郡上踊りを見られる。季節でなくても旅館などの催しで見ることができる。だが、彼ら踊り手は観光客と手を繋いで踊ることも、一緒に小一時間も踊るなどということはしない。ほとんどの場合、見世物なのだ。テレビと同じで、見世物なのだ。

 

 スコットランドアイルランドシャンパーニュ・・・世界中に、来るもの拒まずで、誰とでも手をつなぎ、踊れるフォークダンスがあり、誰でも何度でも来てくれという、開かれたコミュニティーの側面がある。そこには開かれたフォークダンスがある。戦いの側面は今回はオミット。

 

引き込む踊り 

 昔、五輪音頭という官製の盆踊りがあった。日本中で盆踊りとして踊られた。今の団塊の世代は「踊れます」と答える人が多数いる。現代は町々村々の盆踊りが廃れてしまって、今年は新たな物も含めて見も聞きもしていない。

 参加する物から見世物に変わって行ったとき、必然的に参加者は減り、「私も踊れます」という人も減る。

 あらたな東京五輪音頭が作られたようだが、こっちへ来いと手招きするメンバーが活躍する場がほとんど見られない。テレビの中で踊って終わりにならないように願う。

 

 本来、歌も踊りも、テレビやディスクにあるものではない。あんなものは知識だ。具体的な踊りは「自分が」踊ること、実践的な歌は「自分も」歌うことだ。目の前で歌う人が一緒に歌おうと誘い、同じ広場で踊って手を繋いで引っ張り込むところから広まった。

 電波やディスクに歌も踊りも持ってますと言うことはできても、一緒に歌えます、踊れますと言える人は稀になってくる。自分の物と言うけれど、どんどん他人の物になって行く。そんな現代病に侵されないようにもしたい。

 小学校で踊ったオクラホマ・ミキサー。男女が手をつなぐ楽しいひと時。多くの国でそれが老若男女に開かれたダンスとして伝統的に伝えられてきている。きっと社会にある男女間の関係が正常化すると思う。ん、少子化に歯止め? あまり期待できないかな。

 

 多分、きっと、日本の文化に欠けているものの一つは開かれたコミュニティー感覚であり、人種も男女、世代も垣根を感じさせない、

(⌒∇⌒)フォークダンスなのだ(⌒∇⌒)。