You're Nothin' Without Me

お前は俺なしじゃ、ただの役立たず、とでも訳すのだろうか。そんな歌がある。

最後は、俺はお前がいなけりゃただの穀潰し、などと歌って終わる曲だ。

今日は何の根拠もない独り言。

 

一人の人にとって、もう一人を見較べて、自分より信頼できるし前向きな人だと感じるときと、いい加減な奴で頼りにしてはいけないと思うときがある。きっと、良い奴とは前者で、後者はダメな奴になる。そう考えて付き合いを見直すこともあろう。

 

私の知り合いの女性が、旦那さんの子を身籠って、つわりで苦しかった時や、乳児を育てることに振り回された時期に、旦那さんが風俗に通って性病にかかったり理由もなく外泊することがあったとこぼした。

実は、それを問い詰めたところ旦那さんが家に帰らなくなったらしく、別の女性が言うには旦那は離婚を考えているが奥さんは悩んでいるらしい。

 

それで、その別の女性に確認すると、結婚する前からチャラ男だったけど、奥さんがそれを直してゆく決意で結婚したとのこと。

 

無理な決意をしたものだと、私たちは笑ったが、チャラ男は死ぬまでチャラ男な生き物だと。変えようとするのは無駄、不毛な努力で、死ぬまでほとんど変えられずに終わるのは明らか。

相手を変えるのは無理で、自分が変わるしかない。

 

チヤホヤされて可愛がられて生き続けたい人と、信頼されて前進して人生を構築して行きたい人とは育てられ方から違う。自己形成の全ての時期をチャラ男で過ごしたら死ぬまでそのままだ。落語の芝浜なんて話だけの世界と考えて良い。

売れっ子アイドルも生半可ではない自己変革を積み重ねて一流になれる。自立しない人が生きるには、自律している人に頼るしかない。そういう人は信頼できる人、どんと来い、一人や二人なら任せろと言える人を伴侶として選ぶべきだ。

チャラ男とチャラ娘では苦しい将来が最初に透けて見える。上記の二人だ。

 

一方で、少子化が明らかになり、介護放棄と共に子育て放棄がメディアに増えてきた。将来は産みっぱなし、あとは知らないという態勢が用意されないと、親は孤独死、子は放置死がメディアを騒がす時代が来るかの様相だ。

つまりは、生きるコストがかかりすぎる時代になって来るということ。胴上げから肩車になるのは介護状況を示す。しかし、子供を育てるにも、一人親が増えたりきちんと自立した子に育てる暇がなかったり、教育費が馬鹿高くなって稼ぎ出すまでが長くなり過ぎたりして、最初に放棄したり、教育を放棄したり、指導も放棄するしかない、切羽詰まった生き苦しい時代になっているのではないか。

育てた子が家を出て帰って来ないのは何も特殊な事でもない。むしろ、それが普通となっている。

 

この状況を嘆くのは自由だが、家に縛られない生活、人生が普通になると同時に、墓も要らない、家も要らない、伴侶も要らない。求めても得られない時代がやって来ている。

嘆くのではなく準備すべき時期なのだろう。

一人の人が家を離れて自由恋愛で伴侶を見つけ、責任を持てない組み合わせの場合はすぐに離婚する。子供ができたら悲劇だ。しかし勇気を出して育て始めたら、時間とコストと生活が束縛され削られて、やむなく逃げ出す。そのような社会はスラム化してしまう。

 

昔の家を中心とした家族形態に戻れと言っても無理なのだ。一人ひとりが自律すると言いつつ、人間関係が保てない社会で孤立して行くことを前提とした態勢。それに対しており一人が責任を持つ社会の在り方は、多分、高負担・高福祉の社会しかないだろう。

産みっぱなしの子でもきちんと育ち、子が海外へ行ってしまってもきちんと介護される、気楽なようで孤独な時代。

人間が機能を発揮するだけの社会とはそういうモノだ。

人間が人間らしくいきるとは、その機能だけが評価されるのではなく、家族とかコミュニティとか、友人の中で、社会の一員として参加し分け合う事であり、機能を用いられるだけでは奴隷的生活に変わりない。

国民というか、市民というか、その存在意義が経済的機能などに重きを偏らせすぎると、人間としての側面が抜け落ちてくる。

介護放棄とか育児放棄とか、虐待はその現象の先駆けなのではないか。

 

You're my everything. とは言わないが、You're something for us.と、経済的な意味ではなくて誰でもが言える時代が来ないかな。