催しましたよ秋祭り

「昔は遅くまで踊りが境内を埋めたもんだけどねえ」

近くの秋祭りが昼から山車をながし警察が先導するなどして賑やかだった。しかし夕方には静かになって屋台も人待ち顔だった。けっこう人口のある町だと思うけど、境内がだいぶ狭くなって踊り手も集まらないのだそうだ。

 

夏祭りは盆踊りが定番だけれど、秋祭りは地味な踊りが多いのかな、とネットで調べてみると、何が不満かと言えば、近所の人々が眺めているだけの練り歩く踊りや面白い恰好をした踊り手が演じて見せるものがほとんどだということ。

東京でも東北でも阿波踊りやらよさこい、ソーラン節などを見せておしまい。町の老若男女は眺めているだけ。楽と言えば楽なのだが。一部の踊り上手だけが路上を練り歩いたり広場のステージを占領する。予算が取れる町が企画を立てて街の人の慰みにする、それで良いのか?

 

カタルーニャのサルダーナという踊りは、カタルーニャ州アイデンティティだと市民が胸を張る。年がら年中、日曜のミサの後、結婚式の終わり、イベントの中などで老若男女誰でも参加して単純なステップで踊り続ける。

観光地の駅前や教会の広場で音楽をかけて一人が躍り出すと、近くの店や通りがかりの人などが参加して、一時間ほどで二~三百人が輪を作っていたりする。通りがかりの人は荷物を踊りの輪の中心に置いて輪の中に割り込んでゆく。二百人ほどになると荷物が山のようになって何重も輪ができる。

一つだけルールがあって、男女が手を繋いでいて男が右にいる時にそこに割り込むと怒られる。カップルだからだ。

 

ギリシアイカリオティコスはイカリア島の民族舞踊でずいぶん昔から皆で踊っているそうだ。これも誰でも飛び入りが可能で、観光地の広場はもちろん、日曜の協会の広場、結婚式の最中にほとんどの人が行列を作って料理を食べている人が数人しかいない状態になる。

こちらは周辺の島々もよく似た踊りがあって、手をつなぎ合ったり、肩を組み合ったり、腕を交叉させたりのバリエーションはあるが、基本は輪を作って簡単なステップでメンバーが入れ代わり立ち代わりして、ずっと踊っていることだ。

 

ついでだから北欧も引き合いに出すと、ロングダンス(現地の文字が打てないので英訳で失礼)と呼ばれる踊りが昔からある。東はフィンランドからスウェーデンデンマークの一部に広がる。先頭の人が手を取って人々の中を踊り歩いて行く内に次々と人がつながって行くという物。

結婚式の間の例を見ると、会場の広い所も狭い所もくまなく進んで行く。途中で引き返したり何かの下をくぐったりして進むが、ともかく手を離してはいけないというルール。三拍子で軽快にとんでもない所も進んで行くので笑いが絶えない。

これも国民的な踊りで誘われて連なるのを断る理由が思い浮かばない。ただつながるだけだが、面白いから続くのだろう。

 

民族的なダンスとなるにはそれだけの要素がある。人に見せる為ではなくみんなで踊るための要素は、第一に難しくない、第二に参加も退場も自由、第三に服装も自由、ただし(第四に)小さなルールがある。もちろん楽しい音楽がついている。

これがグループダンスとなる民族舞踊の条件だろう。

 

一方で、昔から伝わる演じられる民族舞踊という物もある。

日本の例では、宮廷や神社の舞楽などの奉納舞、能や芸者踊りなどの日本舞踊、現代で言えばよさこい阿波踊りなどの専門的集団の踊りだ。

これは、例えば王宮で踊られたワルツ、ジプシーが作ったフラメンコ、難しいステップで専門家集団が躍るリバーダンス、演劇から生まれたサルスエラなどがある。

その演じられる場所がどこであれ、通りがかりの誰でもが参加できるものではない見世物としての踊りは詰まらなくなる。能や狂言浄瑠璃が一時期は流行っても消えて行くように、見る者は見るだけだから、参加者とはなれない。それは演者と観衆との乖離を生じさせる。

 

温泉へ行ってひょっとこの踊りを見せてもらって、どれだけ面白くても、自分がそこの一員となる意識は生まれない。

東京の祭りにサンバを見せられても阿波踊りを見せられても、自分とは関係ない世界のこと。

 

秋祭りで東京音頭をやれば良いのに。などと言っているのではない。

知らない人がどんどんその輪に入れる踊りをやる!という意識がないのが嫌なのだ。街中が輪になってほしい。その為に踊りを踊る、祭りを開催する。 それならば見世物では変なのだ。

町の人だけで踊る、役所の人が集めた人だけが踊る、お役人が踊れというから踊る、お金をもらえるから踊る、それで町の団結ができる訳はない。

踊り、祭り、出店、その目的が見えずに開催しているとしたら予算と時間と努力の無駄になる。