アイドルはアイドリングしていなければ

 商業的音楽は、本来は音の世界の商品であり映像を売るものではなかった。それ以前は劇場や路上で直接観客に歌を聞かせるもので、ラジオの発展と共にレコードが怒涛のように世界に流れ込んで今につながる。現代は、通常のヒット曲はPV映像でイメージが作られ、ダンスと共に流行を作る時代になっている。
 AKB現象というべきか、小林幸子現象というべきか、音楽に繋がるイメージを売り出すことでプロモーションをかけているのだ。
 
 はっきり言って、AKBやNGT、モモクロなどの歌は下手くそだ。プロの音楽には遠く及ばない。ハーモニーも出来ていないしボイストレーニングも出来ていない。昔のキャンディーズにも負けるし、レディ・ガガとかアリシア・キーズの本格的な歌はもちろんはるか遠くのレベルだ。アイドル系のCDは音楽性を問えば買う価値がない。レディ・ガガは可愛くはないけれど、音楽性が素晴らしいのでCDを買う。韓国の本格的な訓練をしたアイドルに音楽性でははっきり負けている。韓国のアイドルにはアリアナ・グランデ並みの歌唱力のある者もいる。
 しかし、日本では彼女たちの素人だけれども一生懸命に頑張る姿が受けるのだ。オーディションで発声やダンスがどれだけ完成されているかは関係なく、可愛いか、負けず嫌いで頑張る性格かで決まる。歌もダンスも全然だめだけれど、懸命に頑張っていれば良いという風潮が出来上がっている。声も赤ちゃん声だし、ダンスもこけたりするけれど、それで良いからアイドル。歌手でもなければダンサーでも演奏家(ミュージシャン)でもない。一流の歌手、演奏家を目指す人・アーティストにとってはアイドルは目指すべき対象ではない。全く違う世界のものだ。
 
アイドル商法はディスクを媒体とする商売で利益を生み出す時代の商法である。
 総選挙とか握手会などを企画しているのはアイドル商法と言われるが、生き延びるにはそうするしかないのが現状だろう。NGTで個人情報が流出するのも、それがある種のCD購買層に訴えるものがあるからだと思う。それでCDが多く売れればよいのがと考えるメンバーがいる、あるいは上層部がいるのだろう。
 DVD、映像付きCDを買わないと踊りが分からない、応援の仕方が分からないなとというディスクを売りたいがための努力の仕方は、本来の歌手、あるいはコーラスチームの目指すものとは違う。いつまでも素人でいなければアイドルではいられない。どんどん卒業させなければ、初々しさを保つことも出来ず、長く居る者はいつまでも上達しない姿を晒して行くことになる。
 子供たちが学芸会、文化祭で歌ったり踊ったりするのを保護者達は必死に追いかける。それを見た音楽プロデューサーは学芸会に登場する子供たちを売り出すことを考えた。多くの人数が声を出すとオーケストラ効果でそれなりに歌っているように聞こえ見えもする。それがAKBに結実した。親が子供の演技をビデオに撮るようにCD、DVDなどのディスクを売りたいのであろう
 
アイドルはアイドリングしていれば良い。
 演歌の歌手も10年、20年と続けていれば、ボイストレーニングもこなし、日舞を覚え、三味線や尺八を演奏するようにもなる。自分の芸域を強化すると当然の結果が伴う。だが、アイドルの年長組が大人顔負けの演奏をして見せると、アイドルはアイドルではなくなる。アイドル路線を売り続けるには何も訓練しないけれど本番では必死に頑張るいい加減さが必要なのだ。IdolはIdleで良い。本番だけ上手に必死さを演じる人が本物のアイドルなのだと思う。
 映像で年柄に似合わない可愛さを売り出す異様な姿は日本のメディア事業のそれを表しているのではないだろうか。近所の子供が学園祭で歌う程度のがベストなのだ
 
テレビとラジオ、映像とレコード・CD
 映像は目に情報を伝える。テレビでニュースを見る時、映像を見ると声の解説は二の次になって、そのイメージが先行してしまう。フィギュアスケートを見ている時の解説者の声が邪魔で仕方がないという声が多いのもそれだ。ラジオの場合はアナウンサーの声が命で、他の情報源がない。情報の受け手が情景を想像するのがラジオの世界。
 情景というイメージを押し付けるのがテレビ、イメージを想起させるのがラジオ。出来上がった情報を押し付けられる世界と、自らが考えだす世界との違いがある。
 セラピストは何もやることがないような顔をしてセラピーを必要とする人の前に現れる。セラピストに声をかけたなら、彼自身の何かを話し始めることはないように見える。話したいこと、やらねばならない用事はなく、時間的に余裕があって、こちらの話を聞いてくれそうに見える。セラピストの世界を押し付けることはなく、話を始めるとこちらの話題を中心とした対話が続きそうに思える。それだけで癒しになる。
 イメージを押し付けないレコード・CDは癒しを作り出しやすく、映像は引きずられてゆく故に何も作り出さない。自分の世界をベースにした癒しにおいてはそうなのだ。
 浜辺の波を映像化して波の音を流すよりも、単に音だけのほうが癒しを得る。目を閉じて音に委ねる方が心が休まる。
 自分の世界を再生し、イメージを正しく作り直すことでセラピーが進むこともある。癒しを得る。与えられた世界では、美しいなと思うけれどそれは自分の体験とは縁がない。なあんだ、心配ないじゃあないか。愛されていたのかもしれないな。そういった組み換えも可能なのだ。
 アイドルは楽しいけれど、自分が関わらない限りは癒しにならない。縁があるとすれば学芸発表会のステージだ。幼稚だけれども頑張っていたじゃあないか(私も)。あの頃を見せてくれるならば、アイドルも存在価値があるというものだ。