マラソンからオリンピックの矛盾を見る。

だいぶ前になるが、オリンピックに出る選手は肖像権も勝利賞金も自分が決められない。むしろ、オリンピックの事務局などに利用されっぱなしだ。

競技に出ている自分の姿も、周りの選手も、競技場の風景も写真に撮ってSNSで発信できない。国の代表権を勝ち取るために出る選考競技会で優勝しても賞金が出ない。MGCはその典型だ。

 

9月15日のMGCに出場して優勝しても一円も賞金が出ない。彼らは走るために多くの費用をかけている。時間も節制も通常の人の何倍も費やしている。それなのに、代表権を得られるということ以外の報奨がない。代表権を取れなかった多くの人々は何のために練習してきたのか分かるまい。それなのに代表権獲得ができないと分かっている人々もエントリーした。なんという悲惨な人々。

そんな大会を開催した日本陸連は、テレビ放送などから放映権を売った利益を享受している。たとえ、百万円でも出していれば選手を大事にしていると言われようが、名誉を与えてやるから働けと言わんばかりの、ブラック企業の姿そのものだ。

 

お役人の利権販売は免許を与えること、賞状やトロフィーを与えることだけで、ほとんど費用を掛けないのを常識としている向きがある。相手に賞金を与えることなどもってのほか、自分たちに利権担保する裏金が転がり込むことを期待する輩までいる。

日本陸連も役人や天下りがデーンと上層に居座り、オリンピックと同様に放映権も専売、各種デザインまで利用料を取るくせに、そのイベントに出場する選手へのいたわりが少なすぎる。

 

IOCの体質も利権販売で商売する利益追求団体だ。ごく一部の上層部は目の玉が飛び出るような報酬を得る癖に、本当の出演者のほとんどに対して、そこに至るまでの努力に報いるつもりがない。単なる出演者として、立派に演技しろよ、競技らしく本気で戦えよと檄を飛ばし続ける。だって、オリンピックに出場しただけで名誉だろうよと高をくくっている。ロゴマークから、名称使用まで禁止し、各選手が勝手に自分の姿を写真に撮ることも許さない。奴隷制度の復活か? 古代ローマのコロッセアムで、囚人や奴隷をライオンと戦わせて楽しむような文化を引き継いでいる。戦う奴らにはすべて報酬を払うべきだ。会場を囲って外からは見えないようにして入場料やドリンク代金で儲けているのだから。

 

フランス革命でも、バスチーユに火を放って自由を奪い取る先鞭をつけたのは、1センチの土地も持たないサン・キュロットたちだ。しかし最後に実権を握ったのはプチ・ブル達だった。その中から新たな財閥が生まれてサン・キュロットたちはまた小作人に墜ちた。ミレーの落ち穂拾い達はまた新たな資産家の落ち穂を拾って生きることに甘んじることとなった。民衆のための国家、政治と銘打った民主主義はいつの間にか、断頭台に消えた国王に代わった特権階級を産み出し、ほしいままに利権を乱用するとゆがんだ民主主義を通し始めた。まるで、国王が一部の者に利権を与える紙切れ一枚で富を掌握したように。シャルリ・エブドのような支配者を風刺することを是とするフランス的な風刺魂を日本人は持っていない。それは、自分たちが何がほしかったのかを認識する前に民主主義などという名の制度を押し付けられたからだ。従順な庶民と自己認識する前に飼いならされている。

 

IOCが巨大な利権組織だということは皆が認識するに至って久しくなってきた。わずかな理事たちがほしいままにしていることも分かってきた。

絶対王政には賄賂が付き物。その王権が長ければ長いほど複雑に賄賂が行き交う。その内に制度疲労が起きれば何かが変わるだろうが、革命は程遠い。その中で、実際の演技者たちはこれといった報酬を得ることもなく、単に名誉という名の、王様に認められたと自慢の種をもらうだけだ。文字通りの自慢、自己驕慢に過ぎない、目に見えぬほどの報酬のために、日々鍛錬し続ける。

 

本当の意味で選手を育成するつもりならば、目の前に人参をぶら下げた方がいい。大きなのも小さいのもあるだろうが、練習の助けになるように、生き甲斐が少しでも得られるようにすべきだ。

そのためには大迫選手や設楽選手のように、はっきりと賞金がほしいと言える選手が大勢を占めるよう、増えなければならない。

放映権を掌握するというのは、選手自らの肖像権を握るということ。発言権を握るということ。権利を譲ることと報酬とは一体であるべきだ。それが資本主義だ。自らの時間と労力を譲ることで報酬を得ることがなければ民主主義でも資本主義でもない。

 

オフィシャル・スポンサーという名の、名称を使わせていただくだけの奴隷が、選手という名の奴隷を縛る。報道メディアが、用具メーカーが、飲食品提供者が、それと知らずに選手たちを隷属させている。もちろん一般市民たちをも。

このような二重三重に絡んだ利権団体、IOCは絶対王権がヒエラルキーの頂点として具わっている。

 

日本陸連は何もしない。究極的には口を出すだけだ。共に走ることもしなければ、金を出すこともしない。マラソン選手、競歩選手たちの声を東京都にもJOCにも、まして

IOCにも伝えなかった。選手が主役だとは認識していない証拠だ。IOCが主役で、JOCが中間管理職で、各種競技団体は現場の監督者だ。主役がいなければ競技は始まらないのに。