ねがはくは

奇病が世を騒がせている。

 思い付きで権力者が公立学校を一か月間の長きにわたり、卒業、入学の時期に閉鎖せよと言った。塾が大逸りになるのだろうか、給食業者や世の多くのひとり親世帯が苦渋に甘んずるのだろうか。

 奇病で命の短くなる人々のいることだろう。

 達観した西行の句を噛む思いで唇にするかもしれない。

『ねがはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比』

 少し古文調に書いてみた。続古今和歌集の記し方らしい。今年の如月の望月は来週、三月八日か九日に当たるが、今年、京都は三月の末頃に開花らしい。とすれば、まだ咲き初めぬ大樹が目に浮かぶ。満開の時、詰まる所、悦びを他の人と共に楽しみながらではない。何かをやり遂げられぬ無念さもにじむ。え? 花は梅だろうって? 散り終えてしまっては、やり遂げた感で風情がないでしょう。

 死という言葉は重いのだが、何とも美しい思いに思えてしまう。共感する者も多いことだろう。

 蛇足ながら、早蕨の萌え出づる春にある趣きとは異なるようだが、志貴皇子はやはり、我が陣営の衰えを嘆きつつ詠んでいた。待ち遠しいものを焦がれるように。

 このはやり病を克服する時を待つ万葉句を詠み継ぎたいものだ。万葉文字はご勘弁。

『石はしる垂水の上のさわらびの萌え出つる春になりにけるかも』

 

 ついでに西行

『つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて』

 俊成を流さないでくれと崇徳院に請うのだが、崇徳院は否と言った。怒りを治めてと願う心は、奇病を治めるべく強く引く手が切れないように願うばかりだ。