UAEでのサッカー、アジアカップ。国交断絶、出入国禁止を続けるカタールに対して、開催国のUAEが0-4で負けた。

 その翌日、UAEでのカタールに対するインタビューで、カタールを御弄すること、選手の出場権のことなど無茶を言い出している。

 多分、やはり負けている制裁主張国のサウジが裏で協調しているに決まっている。これらの戦時と同様の関係の国が誹謗中傷をすることは、スポーツマンシップ、あるいは政治とスポーツの関係の独立性を揺るがす。非常にアンフェアな行為だ。

 大会が終わってから、いつもの誹謗中傷を開始するならまだしも、これから決勝へ向かう時には不適正な行為だ。

 

 UAEとサウジがカタールをバッシングするのは、サウジの国王承継時だからだ。皇太子が非常なタカ派で、常識を外れていることはトランプ以上なのは有名。アラブの首長制度において、サウド家とUAEの七つの首長家とバーレーンサウド家の親戚)がカタールを爪弾きする。皇太子の不法行為を知っていて対立しているからだ。

 

 中国、インド、サウジは最も金のある独裁国だ。それが専横的行動をしている。彼らの行動は世界を不安にさせるものだ。これからもおかしな行動を、人目も気にせずに行うことだろう。トランプを手懐ければ怖いものなしとばかりに、我々の目を節穴と思っている。日本へも来たのが気にかかるが。

 

 謙虚さを著しく欠いているサウジの皇太子の専横であり、不愉快を告げたから急に動き出すUAE論陣。馬鹿な話だ。

混血だから日本から出てくる価値がある。

 大坂なおみさんが全豪オープンで優勝した。

 何だか浮かれてしまったが、世界の報道関係にはどう表現されるのかと気になって、ネットをさまよってみた。

 悪く言うサイトは見当たらなかった。私にとっては嬉しい話ばかり。

 一部の日本のチャットで批判的な言葉が見当たったけれど、いつものネトウヨの雑言に過ぎない。本当に日本人かなど、疑いのないことにケチを付けたがる人は居なくならないから、不愉快だけれど仕方ない。

 Japanese princess of tennis テニスにもプリンセスが日本に出来た感じ。

 The number one from Japan  日本からナンバーワンが出たぞ。

 一つ、weired and wonderful Nomi's world とあって、変だな?と一瞬思ったけど、the crowd laughed, and fell in love with Osaka と続いていて、スピーチに驚いた話だった。

 スピーチに関しては、通常はボランティアや会場係、チームスタッフに対する感謝の言葉は無いけれど、彼女の謙虚さの表れだろう目に映る人すべてへの感謝の言葉に、結局は彼女を愛してしまう、という素晴らしい礼賛だった。

 ともかく20代前半のトッププレイヤーが待たれていたところに現れた選手が、とてもチャーミングで、謙虚で、幸運の星も持っていることに喜びで迎えられたのが素晴らしい。

 欧米でなくアジア、日本からチャンピオンが生まれること。世界のたくさんの人種がある中、混血のプリンセスが日本から出てきたことが世界の報道に、とても喜ばしいことだと受け容れられている。

 そういう意味では、ホワイトウォッシュした日清食品の表現は極めて残念だ。なんで白くしたのか、本当に不思議な感覚に思える。

 

 世界中から肌の色を含めた称賛を得ているのに、なんで細工をするのか。非難されてしかるべきことだ。

 いずれにせよ、日本が誇る世界チャンピオンが、とても日本人的で謙虚な発言をして、世界から愛される彼女、大坂なおみであることに私は喜びを伝えたい。

 

 ワシントンポストなどは、彼女のような謙虚さが今の世界には必要なのだ。と一言付け加えていた。この付け加えにも私は賛成する。

 余計な一言を私もつけるとしたら、錦織選手も人々の心に伝えるインタビューが出来ると良い。悲劇のヒーローは日本では受けるだろうが、余所では要らない人間。幸運は欲しいが悲運は要らないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

美しい月は

徒然草
[初段]
つれづれなるまゝに日暮らし硯に向ひて心にうつり行くよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば怪しうこそ物狂ほしけれ


[三十二段]
九月二十日のころある人に誘はれ奉りて明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて案内せさせて入り給ひぬ
荒れたる庭の露しげきにわざとならぬ匂ひしめやかにうち薫りて忍びたるけはひいと物あはれなり
よきほどにて出で給ひぬれど猶ことざまの優に覺えて物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸を今少しおしあけて月見るけしきなり
やがてかけ籠らましかば口惜しからまし
あとまで見る人ありとは如何でか知らん
かやうの事はたゞ朝夕の心づかひによるべし
その人、程なく亡せにけりと聞き侍りし

  +++

三十二段のこと
(旧暦九月)秋も深いころの少し欠けてきた月を見ようとお誘いをいただいて、歩き続けた私たちは暁も近いころ、飾り気のない、わざとらしくない香の漂う、とある庭に居た。
ひと時を月に魅入られて一緒だった彼が庭を去ったのち、なぜか去り難い思いがして振り返ってみると、その庭の主だろうか、妻戸を少し空けて一人、月を眺めるようだった。
好い月を堪能してすぐに窓を閉じるような人でなくて良かった。その風流を愛でる心はいつもの心の持ち様なのだろう。
ほどなく人づてに、その人がお亡くなりになったと知りました。

詰まるに
月は人を魅入らせるもの、そして命を吸い取るかもしれない。それでも私は魅入られて茫然とするひと時があって嬉しいのです。

  +++
他の段のこと
月のことはいくつも語る段があります。その中、兼好法師は満月よりも少し欠けた月が良い。時には雲に隠れていても、その後ろの月を思うことも風流なことといいます。
多分、欠けて行く十六夜の月からの数日間が彼は大好きだったと21世紀の私は思っています。
綺麗な月こそは、最も命を奪うものかもしれない。

流れ星が見えた

古代の人々は、日が落ちると月や星を眺めていました。ほかには何も見えません。
 毎日、晴れた夜はいつも星を見ていました。ですが、星の概念は、空にある不思議な光の点に過ぎません。
 神が与えたもうたか、悪魔が決めた物か。夕方から少しずつ位置がずれて、夕方に見えた星はいつも同じ方向へ移動して、朝になると消えて行きます。
 よく見ると、夏には場所の変わらない星も見えます。極星と名付けましょう。
 星が出てくる方角を東、消えて行く方を西、変わらない星の方向を北、その反対は南です。
 そうやって地上の物の位置を確認すると、すべての位置が明らかになります。遠くへ行っても星の動きをたどれば帰って来れるのです。
 いつしか、星の移動する方向と極星を用いて地上の万物の位置を表すようになり、それが地図となりました。便利になりました。
(漢字の北の字義は極星polarisを,東は上ること、西は収めることを意味します。いずれも星の動きに相当します。南は豊かに実らせる春の暖かい風が来る方角。)

太陽が現れて消えて行く道のある線上を、それを追うように現れる星々は一夜をかけて現れて消えて行きます。
 その中に日々の動きの速い明るい星が五つ見えます。色を五行説に合わせて、水、金、土、火、木を当てます。(太陽系惑星はほぼ平面にあるから太陽と似た動線を持つ)
それに日と月を足して、七曜と呼ぶことにしました。古代のエジプト、ギリシア、インド、中国など世界中で七神を建てているのは偶然ではないでしょう。
 方角と暦は日月を含む星に起源があり、私たちの生活に密接に関わっているのですね。

星の動きが地図や暦の基礎なのですが、現代では地上の光に遮られて見えない星を眺めることもなく、その動きを見て時節を知ることもないですから、日没の早さくらいは分かりますが、星と現実の地上の姿を照らし合わせることが出来なくなりました。
 現代では地図と地上の姿とを比定することが出来る人は、それなりに考えて想像する練習をした人でしょうね。
 しかし、そのほとんどの人は、空のことは意識せずに、現実に見える通りや建物を地図に探して方向を確認している流れの上にあるのでしょう。
 冬の風が強い晴れた夜にはあまり人工の光のない所へ行って、のんびりと温かい飲み物を片手に空を眺めているのもいいかも。鬼門の方角から流星が落ちてくるかもしれません。

せめて、太陽の方に時計の時針を合わせて12時(0時)との1/2中間角が南北方向(おおよそ)と知っていれば、自分が向かう方角を失うことはないのですが。
(朝6時は12時との文字盤上の中間角9時方向が南。14時ならば文字盤上の13時方向。何時でも南が分かります。夏至冬至でも分目盛り一つ分以下の誤差)
 太陽が見えない時は丸い柱の影などを見て概略を確認できます。誤差は地点の経度・緯度差、均時差などで分目盛り一個分くらい生じる。

労働者とは何なのだろう

労働力、あるいは労働者という呼び方は経済理論、特に資本主義の経済理論の中の言葉。
 人の持つ経済的な労働能力を前提とする表現であり、生活を成り立たせるために労働をする一般的な人々を労働者と言うことになる。
 日本は労働力が不足しているとして、外国人労働者を一定の能力を持つ物に限って日本へ入れるための条件を整備する法律案が通りそうだ。


労働力というものは物であり、人物ではない。しかし、労働者は人物だ。
 機械に置き換えられる労働力が求められていて、人物としての要素は要らない、そのような発想は奴隷制度か人身売買と同じであり、機械のように動かなくなったら廃棄すればよい存在になる。

労働者を受け入れるとは、労働を提供する人物を招き入れることだ。
 会社に就職するとか、役所に入所するとか、個人経営に携わるということと何ら変わらない。
 会社に入れる時には社会保険法や労働基準法等に準拠しなくてはならない。最低賃金ももちろん存在する。
 このような受け入れ条件をきちんとしてから一定の能力を持つ人物を受け容れる。

 座布団を用意していない内に客を部屋へ入れるなということを言いたいのだ。

 時には共に食事をとり趣味を語る。互いの信頼を徐々に築き上げて互いに楽しい結果を得る。それを目標とした最低限の条件を整備すべきだ。

 現時点でも逃げ出す人々が相次ぐ現実には、座布団を用意もせず、冷たく見下ろして話し合いもしない状況がある。人物と人物の関係がなく、奴隷のような扱いをする人がいるのだろう。


少し前、邪道という中国マフィアが人を潜入させ、不法な扱いをしていた。
 昨今のミャンマーや日本の留学生のやり取りに関わるおかしな団体がそれに近いことをやる。
 奨学金渡航費用という名の借金を背負わせて、逃げられないようにする。
 人集めの為に広告塔としての人を使い、家を新築したとか、高級な乗用車を乗り回すとかさせる。どこかの新興宗教の手口だ。

 いずれにせよ、労働力を入れるのではなく、生活者を入れる覚悟でなければ悪法の名を免れ得ない。そうですよね、竹中平蔵先生。あなたの受け容れ組織はやましいことはしていませんが。

労働者とは生活者の別名。

 労働することで生活をしている、ごく普通の人物を指す。決して労働力になるために人ではない。

機能の競合が輻輳する

将棋や囲碁の世界が話題になることがある。

 新しい期待の新人が現れるプロの世界のことと並んで、コンピューターでその対局をして見せることもかなり注目を集める。
 究極の話をすれば、人間に負けるようではソフトは完成していない。いつかは人間を完全に追い越していなければ開発の意味がない。

 しかし、人間対人間の対局はソフトの進化に関係なく、別次元のこととして相変わらず継続している。
 それを観戦していると、将棋名人と言われる人は機械が指すようには指さない。囲碁名人もソフトとは違う打ち方をする。

 一方、機械も人間と違う指し方、打ち方をする。かつては過去の進行データを何百万通りも記憶して優勢になる方向を探す。ある意味、人間の思考を真似することがあったが、今は機械には機械の世界があり、ソフト対ソフトで自動的に高速で競合させてその世界での完全無欠の一手を探すようになった。
 完全無欠はないから、最善手を探して実行して行くわけだが、その一点だけは人間も機械も同じだ。

 

人には個性があり、

 守りを重視する人も攻撃しか考えない人もいる。機械的に考えて最善手であるかどうかは別にして、駆け引き上手でなければプロにはなれない。人間が指す手を一々ソフトが評価すると、優勢になったり劣勢になったりを繰り返す。機械と同じ戦い方ではないから評価基準が少しだけ違うからだ。

 機械対機械の進行を見ていると実に詰まらない。人間対人間の進行を見ていると実に面白い。人間対機械は異種格闘技の戦いを見ている感じで、何が面白いのか分からない。正直、人間に勝てないソフトは未完成だし、そんなものに人間が勝つことを期待しない。

 楽しく観戦することを目的とするならば、ソフト対ソフトも、人間対ソフトも見たいとは思わない。人間対人間の対局が一番面白い。はったりをかますこともあれば虎視眈々と狙いを秘める場合もある。そんな狙いを想像しながら、観戦者は対局を見つめる。すると、あちらこちらから、次の一手はこうすべきだとか、甘いなあとか、勝手な言葉が飛び交う。それも楽しい。
 ソフト対ソフトでは口をはさむことも出来ない。数十手先まで読んでこの一手を指しているんですなどと開発者が言えば言うだけ観戦者は何も口を挿めなくなる。詰まらん。

 

話は飛ぶが、自動運転車の開発が進んでいる。

 エンジンではなくモーターで走るように変わりつつある。将来的には何も運転らしいことをしなくても目的地に着くことになる、あるいはその方向に向かっている。
 そうなった時、人は車の運転をしなくなる。行き先へ到着することのみが目的となった機械に体を預ければその内に到着するのだから運転する事そのものに楽しみは無くなる。
 上り坂が来たらアクセルを踏んで、下り坂ではエンジンブレーキを効かせて、急カーブではカウンター気味にハンドルを切ることもある。マニュアル車では加速も減速も自分の好みの走りをして楽しみたい。そんな人間は、いずれは冷笑を浴びることだろう。

 自分で物を考えて自分の思う様に動き回りたい。そんな思いが将棋の駒にも自動車の運転にも、本質的な意味で潜在的な作用をしていると思う。だから楽しみがある。
スポーツもみんなそうだ。何もしなくても良くなることは楽しくない。

 

ある哲学者は、機能は存在を主張すると言った。
 その機能は肉体的物理機能、知的機能という人間に具わるものに限らず、集団的機能、社会的機能、国家的機能、権力的機能は、それを発揮したいという欲望が人間の奥の方からふつふつと湧き上がるように誰もができている。生殖機能もその一つだが。
 良い方向に作用するとは限らないが、人間はともかくその機能の存在を主張する。だからスポーツがあり、芸能があり、知的創造がある。
 その人間の能力を機械が凌駕し、押し潰し、無くても良いと決めつけるようになると、人間はどのようにしてその主張を貫こうとするのだろうか。

 ひ弱な能力しか持たない人間が機械を用いるには、資本力が大事になる。資本は機械がなくては存在を維持できない。その将来にはいびつな何かが出現する気がする。

 輻輳する競合は人間を洗練させてきたが、競合のベクトルが絡み合って迷走する傾向がある。利権のバッティングはその原点となるベクトルに間違いがあるからだ。

フェアプレイのルール決め、それの順守が為されなければならない。国連のような利権を守るための期間ではなく、国際的なフェアプレイ機構が司法権を持って成立すべきなのかもしれない。ね、トランプさん、モディさん、安倍さん!

Are you a short-sleeper?

ショートスリーパーと自称する人がいる。

 いくつかの海外公的機関のレポートと新聞記事などのジャーナルを見て、そういう人がどのくらいいるのか調べてみた。会議中にあくびが出る、運転中に眠気を感じるなどの睡眠障害を起こさない条件で、一日当たりの睡眠時間が6.5時間以下で大丈夫な人は5%、6時間以下の人が3%、4時間以下の人は1%前後とするものがそれらの平均的な睡眠時間だろう。

 逆にロングスリーパーと言われる人々もいる。先天的に長時間の睡眠を必要として12時間以上の場合は長眠症などと呼ぶ障害だという。先天的であるかどうかは別にして、ミハエル・シューマッハは12時間、白鳳関は夜に10時間と昼に数時間、アインシュタインは10時間が通常だと言う。

 短眠症、つまり長く寝なくても大丈夫と言う人の例では、ベンジャミン・フランクリンが6時間、ナポレオンが3~4時間、マーガレット・サッチャーが夜は4時間、チャーチルが4時間などと言われるが、周知のとおり、ナポレオンやチャーチルエジソンは転寝をすることでも有名で、彼らの主張する夜に何時間という時間では睡眠不足だったことは確か。エジソンは、魚は泳ぎっぱなしだし馬は物音がするといつでも走り出せる。人間だって寝る必要はないんだ、と主張していたから、無論、睡眠時間のデータはない。

 

寝だめは無理

 私なんかは、眠いと思ったら横になれる所を探してしまう人間だから、夜に6時間、その他で3時間が通常。徹夜した翌日なんか20時間ほど寝てしまう。睡眠不足を補うリカバリー・スリープは寝だめとは違うが適宜取る必要がある。明日の為に睡眠時間を貯めておこうという、プレ・スリープは不可能だと言われるが全く不可能だと思う。それまでの寝不足を解消して勝負に向かうのは正しいけど、それはプレスリープではない。

 

ショート・スリープは自慢?

そして興味深いのは、二つの新聞社のジャーナルにあったのだが、ショート・スリーパーと自称する人は、仕事が忙しい事や人気者で眠る暇がないと自慢するためにそう言っていると分析していることだ。

多分そうだろうなと私は思う。眠いと言って昼休みに寝ている人がいるもの。私は将棋を指したり卓球をしたりで昼休みにリフレッシュする。しっかり寝てから出て来いと言いたいが、言わないでいる。忙しいのだろう。何でそうなのかも聞けないからね。

 

日本人の7割が睡眠不足だという。

子供と年寄を除いたらほとんど全部がじゃないか。昼休みに卓球!と言える若者を見たいものだ。コミュニケーションもないし、つまらん、いや、残念ですよ。

私たち人間の体の構造やホルモン分泌が環境に適応して行くには、7世代がその環境の中にいる必要があると聞いたことがある。睡眠不足に適応して行くにはあと100年は必要だ。少なくとも我々の21世紀世代では無理だ。それまでは無茶をしないようにしてほしい。

ディスプレイに時間を引きちぎられている人々にお悔やみを申し上げる。

寝ている時間が無駄だから起きてるというが、寝不足で時間効率が下がることと比べて、決して無駄が少ないわけではない。

リカバリー・スリープをさっさと取って効率よく仕事してさっさとアフターファイブに勤しもうではないか。